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 東海ダンマサークルでは、東海地方をベースにお釈迦さまの説かれた「テーラワーダ仏教(初期仏教・上座仏教)」を、皆さんと一緒に学び実践するために活動しています。
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仏教と文化①宗派は文化---誓教寺 Seikyojiの<誓教寺報つきなみ>より抜粋です。





協会の記事ではありません。
誓教寺 Seikyojiの<誓教寺報つきなみ>より抜粋です。





仏教と文化①宗派は文化

 

藤本 慈照

 

日本仏教、インド仏教、スリランカ仏教?

 

 スマナサーラ長老は永年にわたって「スリランカの仏教ではなくお釈迦様の仏教を日本に伝えます」と言い続けておられます。それがどういう意味なのか、私はこれまでまったく分かっていませんでした。スマナサーラ長老は、仏教の本質的な部分とインドや中国や日本など各地の仏教文化の違いをしっかり見極めて、そして仏教の本質と各地の仏教文化との切り離しにくい関係についても最初から分かったうえでおっしゃっていたのだと、私は最近やっと気づき始めました。

仏教の文化といって分かりにくければ、仏教の宗教的な部分といってもよいかもしれません。たとえば仏教式の葬式といっても、インドや中国や日本など各地域でやり方はバラバラです。日本では宗派ごとにも違うありさまです。先祖供養とか施餓鬼とかお盆などのどの地域にもある仏教行事も、各地域でやり方や考え方は違います。そういう日常の実践や儀礼を含む「宗教」とか仏教文化としての仏教ではなく「お釈迦様の仏教を伝えます」とスマナサーラ長老はおっしゃっているのです。

大学の学問のように「仏教思想」を教えるという意味でもありません。それは私にも分かっていました。大学では、「悟りとは何か」とか「悟りへの道を実践する」などという生の仏教はやらないのです。仏教を「思想」としてだけ教えるのです。スマナサーラ長老が取り組んでおられるのは、そういう、大学の授業のように思想を教えるのでもなく、文化とか宗教としてのスリランカ式の仏教を教えるのでもなく、仏教の真髄を教えるという意味なのです。

しかしそれは、そんなに単純な話ではないようです。スリランカ人が日本人に「仏教」を教える場合、お互いの文化の部分はきれいに切り捨てて、「仏教」だけが素直に伝わらないといけません。教えるスマナサーラ長老は、スリランカ文化を抑えて教えておられます。しかし受け取る日本人が日本文化の染み込んだ日本仏教の視点を持って受け取ろうとすると、うまくいかないでしょう。もともと自分たちが持っている日本仏教の物差しを持ってきて「これは好き、これは嫌い」などと選り好みしたら、仏教をそのまま受け取ったとは言えなくなってしまいます。受け取る日本人も、日本文化を抑えて仏教の純粋な部分を素直に吸収しないといけません。仏教を正しく理解し吸収した後で、それを日本文化に合うようにアレンジして「日本仏教」をつくれば、よりしっくりと日本人向きの、しかもお釈迦様の「仏教」になるでしょう。これまでの日本仏教は、お釈迦様の仏教の部分よりも日本文化の部分が幅を利かせていたように思えます。

言うのは簡単です。しかし文化は理屈ではありません。身体と心の隅々にまで染み込む、抜きがたいものです。言葉とか行動パターンとかものの考え方は変えにくいものです。相手の文化を理解するのも大変です。食べ物の好みなんかは生涯変わらないどころか、相手の好みを理解もできないでしょう。仏教にも、日本仏教とかインド仏教というように、各文化の好みに合わせて変わってしまっている部分があるのです。そんな日本の仏教文化にどっぷり浸かっている私たち日本人がお釈迦様の仏教を聞いたら、どのように反応するでしょうか。スマナサーラ長老はそこまで考えて、日本人が受け入れやすいアプローチの仕方で、インド仏教でもスリランカ仏教でもない仏教の要の部分だけを教えておられるのです。大変なことだと思います。

 

仏教と文化

 

 明治になって西洋の影響で始まった「仏教学」では、便利なので、仏教を輪切りにして日本仏教、中国仏教、インド仏教などと区分けしています。とりあえず地域ごとに分けるのです。しかし、分けられているのは地域だけではありません。それぞれの○○仏教ごとに、同じ仏教のはずなのに、明確な色合いの違いが感じられます。たとえばインド仏教と中国仏教では、言葉が違うだけではありません。「唱えて聞いて覚える文化」と「書いて読む文化」の違いなので、お坊さんの弟子の育て方からもう違います。気候風土や食べ物が違うので、着るものから住む処まで人々の生活スタイルが違います。それがどうしてもお坊さんにも在家信者にも影響を与えます。インド仏教と中国仏教の、このお互いに違う部分がもう「文化」の違いなのです。

葬儀や先祖供養をして功徳を積むやり方やそれに対する思いも、インドと中国では違います。それは「仏教の教え」の部分でもあるのですが、倫理道徳や来世観を含む日常生活に関わる「文化としての仏教」とも言えます。「仏教」の実践活動の部分は、「仏教」と「文化」が混ざっているのです。

では、悟りと、悟りに至る方法は、インド仏教と中国仏教では違いがあるでしょうか。修行法は多少違うように見えても、インド仏教ではこういう悟り、中国仏教ではああいう悟りなどと、悟りそのものが違っていては話になりませんね。悟りはインドでも中国でもまったく同じです。そして、その同じ悟りに至るのなら、悟る方法・道筋も同じなのです。つまりインド仏教とか中国仏教などと区分けしていますが、そのインドや中国などという「文化」の部分ではなく、肝心の「仏教」の部分はどれも同じなのです。「仏教」の最初の最初から、お釈迦様がはっきりと教えておられるのです。

この、インドでも中国でもない「仏教」の部分、悟りと悟りに至る方法だけを教えます、という意味で、「スリランカの仏教ではなくお釈迦様の仏教を日本に伝えます」と長老はおっしゃっていたのです。日本仏教には、日本文化の部分がすでにたっぷりあります。スリランカの仏教には、スリランカ文化の部分が、こちらも濃厚にあります。日本文化の中にスリランカ文化を持ってきても、そこはなかなかうまくいきません。また、文化を押し着せるようなことはしなくてよいでしょう。異文化の紹介は物産展のように物珍しさや新奇さがあって楽しいのですが、日本人にスリランカ文化が取って替わることがあるでしょうか。緑茶の代わりに紅茶を飲んで、香辛料の効いた食べ物を手で食べて、トイレの後は紙で拭くのでなく水で洗う……(トイレは、日本でも水で洗う良さが広まりつつありますが)。ちょっと考えにくいですね。

「文化」は、好きな人が好きなものを取り入れればいいのです。好みの問題であって、人の生死に関わるものではありません。

しかし「仏教」はどうでしょうか。これは生死の道に関わる重大問題です。果てしなく続く輪廻の苦しみを脱出して解脱・悟りに至るのが仏教の教えで、目的で、お釈迦様はみずから悟り、その悟りに至る方法を人々にも教えたのです。仏教というからには、その「仏教」でないと困ります。仏教でないものを仏教だと思い込んで教えたり学んだりしていては、いつまでも悟りに近づかないし、何よりも「看板に偽り」ありです。「たい焼き」屋の看板を挙げながら「たこ焼き」を売って、「名前も同じようなものだからいいじゃん」というわけにはいかないのです。

 

日本仏教の悟りと修行

 

日本仏教では、現在に至るまでこの「仏教」の部分がどれだけ真剣に探求されてきたでしょうか。

日本仏教界には最近の百五十年間に劇的な、良くない変化がありました。明治に始まり現代に続く「仏教学」は、最初から「仏教」を除外していました。悟りとは何か、そして悟りに至るにはどうすればよいのか、その求道というかみずから体験する実践の部分、つまり「仏教」の本質が、「仏教学」には最初からなかったのです。「仏教学」が目指す目的は、学問として机上の書物だけを読み、そこに書かれている「仏教思想」を他の哲学や宗教と同様に研究することです。大学で学ぶ哲学とか思想と同じ扱いなのです。ですから「仏教学」をどれだけ学んでも、大学の偉い教授になっても、それでは悟れません。仏教=悟りを体得するには別の道が必要なのです。

では、修行して悟りを目指すはずの日本仏教の現場では、この「仏教」の部分は正しくおこなわれていたでしょうか。

少なくとも明治からこっちの百五十年間は、「仏教思想」を学ぶだけの「仏教学」に押されて、現場の仏教界でもどんどん悟りと悟りに至る努力が廃れていったように思えます。終戦までの八十年間は、それでもまだ必死でした。国家神道が幅を利かせ廃仏毀釈で虐げられる中で、日本仏教界は存在意義を示さないといけませんでした。

しかし戦後はどうでしょうか。「政教分離」といえば聞こえは良いですが、仏教をはじめとして宗教の出番が、公の場になくなったのです。必要ないなら、存在意義もありません。仏教は急速に力を落として行きました。しかし、文化の移り変わりのように人々の行事や心から仏教(文化)が消えていくのはまだしも、悟りへの道という「仏教」の部分まで顧みられなくなるのは寂しいものです。また、仏教文化というものがここまで脆いというのもちょっとびっくりです。お盆やお彼岸や寺のお参りなど、伝統ある仏教文化でも必要がなければ簡単に消えていくものなのです。

そういう戦後から四十年近く経った頃に、スマナサーラ長老が日本に来られました。スリランカの文化の香りはカットして悟りを目指す「仏教」の部分だけを伝えるためです。現代の日本仏教には、やはり「仏教」の部分がかなり欠けていたのです。一般の人々のみならずお坊さんまで、悟りや悟りに至る方法をほとんど忘れかけていたのです。もっと以前から知らなかったかもしれません。「日本仏教」に対する「スリランカ仏教」ではなく、「お釈迦様の仏教」を伝えるために、わざわざ来られたのです。

 

国と文化

 

 日本仏教、つまり「仏教の日本文化的展開」の最大の特徴は何でしょうか。明治になって僧侶が正式に結婚して世俗化したのも問題かもしれませんが、それ自体は在家者が仏教を実践するというだけのことです。仏教は出家も在家も合わせて全人類のためにあるのですから、「仏教」としては問題ありません。世俗化は仏教の日本文化的展開の一つに過ぎないのです。

日本仏教を外国に輸出するときは、文化の違いに注意が必要です。日本文化の部分を出しても違う文化を持つ他国では受け入れられないのです。日本仏教というか「仏教の日本文化的展開」は、戦時中は朝鮮や台湾など占領した国々に進出しました。が、終戦と共にすべて引き揚げになりました。朝鮮にも台湾や旧満州(中国東北部)にも自国の仏教があります。仏教の日本文化の部分は他国の仏教文化には合わないのですから広まらなくて当然でしょう。日本の神道も同じです。あれは日本だけの宗教ですから、他国に持っていくだけで無意味になります。外国を一時的に占領して法的には「今日からここは日本です」といっても、文化はそう簡単には変わらないのです。押しつけても無理です。

悟りと悟りに至る方法という仏教の根幹は全仏教共通で、それは悪いものではなく文化の匂いもしないので、それならば受け入れられただろうと思います。しかし日本仏教に、日本文化の匂いのない純粋な悟りと修行があったでしょうか。そもそも、占領した国々に対して日本文化の匂いがプンプンする日本仏教を意図的に輸出したとも言えます。

 

「宗派」が日本仏教の特徴

 

日本仏教文化の最大の特徴は、仏教が多種多様な宗派に分立していることでしょう。宗派が分立した歴史も古いです。仏教が日本に入って二百年足らずの奈良時代にはすでに南都六宗などといって、まだ宗派というより学派みたいなものでしたが各寺院の特徴を出し始めています。平安時代には天台宗と真言宗が設立され、続く鎌倉時代には浄土系や禅、法華など多様な宗派が花開きます。その宗派がさらに内部で分立して、戦前までに十三宗五十六派にもなりました。

日本仏教の源流である中国でも朝鮮でも最初はいろいろ宗派に分かれましたが、やがて禅系統と浄土系統の二流派に、そしてそれらを合わせて修行する一流派にほぼ再統合されています。分立しているグループは、主流派に比べて圧倒的に小さいです。チベットは大きく四つくらいの流派に分かれていますが、どれも同じチベット語訳大蔵経のすべてのお経を使っています。密教中心か普通の大乗中心かで大蔵経典のどの教えをアピールするかという違いがあります。戒律など生活面での違いも少しあります。しかし全宗派が並んでも、なんとなくどれも同じという雰囲気があります。日本仏教の宗派だけが、他の仏教の宗派とか学派と違うように見えます。そもそも並んだり一緒に活動したり、他宗派と混ざりたがりません。そして日本仏教で宗派といえば、雰囲気以前に教えの根幹に、お互いに大きな違いがあるのです。

日本仏教の宗派は、もはや仏教の中の一宗派というよりは、それぞれが○○宗ではなく○○教のような、仏教を基にしてはいるけどお互いが別々の宗教のようにさえ見えます。なにしろ戒律がそれぞれ違います(浄土系のように戒律がない宗派さえあります)。漢訳大蔵経から選び取ったお経がそれぞれ違います。それに基づく教えも違います。その教えを唱えた開祖が違うのはいいのですが、開祖を崇めて崇めて、「お釈迦様はどこに行ったの?」というほどです。「仏教」というより「親鸞教」とか「日蓮教」とか「空海教」などといった方が良いような「開祖教」なのです。

「浄土真宗にはお釈迦様は必要ありません」とまで言った布教使がいました。「仏教はお釈迦様の仏教だけではない。阿弥陀仏の仏教もあるのだ」などという、これまた浄土真宗の布教使さえいます。仏教じゃなくて良いなら、むしろお釈迦様が邪魔なら、仏教という看板は諦めて「親鸞教」などを別に創立した方がすっきりすると思います。これほど何から何まで宗派ごとに異なる「仏教」は、日本仏教以外に例がないでしょう。日本では各宗派のお坊さんや信者が集まっても、一緒に法要もできないのです。読むお経が違うし作法も違いますから。

各宗派の開祖が大きく前に出過ぎているのが良くないのです。「我が宗派は○○師が何歳のとき大悟して~」とか「我が宗派の本山は~」とかいうのは良いのですが、それら開祖様の遠いお師匠であるお釈迦様を忘れたり、あまつさえ邪魔扱いするようでは、もはや仏教とは言えません。「宗派」という日本の仏教文化だけの特徴は、威張れるものではないのです。むしろ恥ずべきものなのです。

 

日本仏教の落し物

 

 そんな各宗派にこだわる日本仏教に、お釈迦様の悟りと悟りに至る道は正しく伝わっているでしょうか。つまり「日本仏教」の日本文化の要素を取り除いた後に、きちんと「仏教」が輝いているでしょうか。

それがかなりあやしいのです。日本の宗派仏教ではお釈迦様の教えよりも各宗派の開祖の教えの方が大事なのですから、まず、日本仏教にはお釈迦様とその教え(悟りと悟りに至る道)がはっきり見えにくいのです。見えにくいだけならいいのですが、何百年も千年以上もその調子で開祖の教えだけ学び伝えていると、自分の宗派の中ではそれしか必要ないので、それしか学ばなくなります。その偏った学びが一生涯続けばその人は、さらには何世代も続けばその宗派全体が、いつの間にか「お釈迦様って誰?」というくらい、お釈迦様とその教えをすっかり忘れてしまうことになります。

実際にそうなっていないでしょうか。仏教の枠の外から「ブッダは実在しない」などと言っても責任も重くないので構いませんが、肝心の仏教学者やお坊さんが「お釈迦様は関係ない」なんて言うようでは、日本仏教は終わりです。「日本宗教」とか「日本親鸞教」とか、仏教以外の名前をつけなければいけません。しかも、日本の仏教学者やお坊さんは、このような現状を危機とも異常とも感じてさえいないかのように平然としているのです。

戦後の「仏教は必要ない」という風潮にもまんまと乗せられているように見えます。「必要ない」と言われると慌てて「人寄せ」できるテーマを探すのですが、これがまた的外れになりかねません。今また仏教がさりげなくブームに見えますが、その中身は「終活」とか「墓じまい」とか仏壇や位牌の処分などの「文化」的なことがほとんどでしょう。それはまだ日本仏教に関わるので良いのですが、「美坊主コンテスト」とか「お寺で飲み会」なんて言い始めたら、もう開いた口がふさがりません。

そのような日本仏教界に、スマナサーラ長老は悟りと悟りに至る道を教えに来られたのです。日本仏教が「仏教」を落としてしまって宙ぶらりんな状況になっていたところへ、また仏教を根付かせてあげようとしているのです。

不思議なことに、仏教学者や各宗派のお坊さんが、なかなかその一番大事な落し物を取りにきません。自分が「仏教」を落としてしまったことに気づいてもいないかもしれません。日本「文化」を日本「仏教」だと思ったまま、儀礼や法要を同じやり方で続けているだけです。

悟りと悟りに至る道を「これこそが仏教だ。正しい道だ」と理解してみずから選び取り心を成長させるのは、むしろ一般の仏教愛好者です。この人々は仏教が好きなのに、道を求めて日本のお寺に行っても、日本のお坊さんに尋ねても、どうも求めるものがなさそうだと感じて失望して、「ではどこに行けばいいの?」と探してスマナサーラ長老に出会うのです。日本仏教の中に日本文化ではなく仏教を探していたので、なかなか見つからなかったのです。今やっと見つけました。

 

歴史は繰り返す?

 

スマナサーラ長老の初来日から四十年近く経ちました。日本仏教は少しは変わったでしょうか。文化ではない悟りとそこに至る道の「仏教」は正しく伝わったでしょうか。

一方では正しく伝わっていると私は胸を張れます。少なくない数の日本仏教のお坊さんが、自分の宗派の教えの上に大本のお釈迦様の悟りの教えがあるのだと思い出しつつあります。

日本の仏教文化は、世間が急速に変えつつあります。戦前までの、戦後もしばらく続いていた日本仏教文化の伝統は、ガラガラと音を立てて崩れつつあります。家族葬とかゼロ葬とかいう一方で、寺や神社や山や滝がパワースポットなんですって。そちらは妙な人気で、行けばご利益があるのでしょう。

せっかくスマナサーラ長老が文化の匂いを削ぎ取った仏教の真髄だけを伝えてこられたのですが、最近、二つ、困った現象も目につきます。一つは、仏教の真髄の理解できるところだけを選り好みしようとする現象。もう一つは、せっかくの仏教の真髄にまた文化の匂いをつけようとする現象です。

一つ目の、理解できるところだけ選り好みする現象は、最近大流行の「マインドフルネス」です。仏教の悟りに導く修行法から一般的なところだけ盗まれました。しかしお釈迦様は最初から著作権なんか放棄して、「誰でも自由にこの修行法で悟りに挑戦してください」と開放しておられますので構いません。みんな好き勝手に使っています。

悟ってもいない一般人が「マインドフルネスだ」などと言っていろいろ修行してみても、それなりに効果は出ます。修行法は正しいのですから。しかし時速三百kmで走れるポルシェを近所のスーパーに買い物に行くためだけに使うのは、ちょっともったいない話です。「マインドフルネス」の正しい使い方を、それを知っている人からきちんと教わる方が良いと思います。

もう一つの困った現象は、本当に困ります。

スマナサーラ長老の真似をしているつもりなのでしょうけど、スリランカや東南アジアの文化をプンプン匂わせながら日本で「これが本物の仏教ですよ。日本仏教はダメですよ」とばかりに活動するお坊さんやその信者さんが出てきたのです。異国の文化が好きな日本人はむしろこちらを喜ぶでしょう。肌に合うならそれでもよいのですが、そのお坊さんや信者さんに、まず確かめてほしいのです。「ここに悟りはありますか?悟りに導く道はありますか?」と。「日本仏教がダメでテーラワーダ仏教が良い」と思うのは構いませんが、大事なのは日本とかインドとか東南アジアではありません。仏教の真髄、悟りの部分です。悟りを忘れて「文化」で道に迷わないようにしてほしいのです。

仏教も人が身に付けるものですからその人の文化をどうしても背負います。仏教だけを伝えようと苦労してきた先人の横で異国文化を売り物にするのは各人の好みです。しかし文化を仏教だと言って売ってはいけません。区別は必要です。受け取る側も、仏教と文化の違いが分かっていないと危険です。仏教も文化も同じく人間が扱うものですが、たい焼きとたこ焼きは別物なのです。いや、もっと違いますね。仏教は、つまり悟りと悟りに導く道は、その資質を身に付けた人だけが扱えるものです。よくよく注意して、本物の仏教が日本仏教にも根づくように頑張りたいものです。










誓教寺 | 10:29:24 | トラックバック(0) | コメント(0)
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