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仏教と文化②文化は変わるが壊れない---<誓教寺報つきなみ>より抜粋





協会の記事ではありません。
誓教寺 Seikyojiの<誓教寺報つきなみ>より抜粋です。





仏教と文化②文化は変わるが壊れない

 

藤本 慈照

 

文化は変わるもの

 

 紀元六世紀、飛鳥時代の日本に仏教がはじめて伝わってから千五百年間、日本仏教は今日まで不変の伝統を守り伝えてきた、と、つい思いがちになりますけど本当でしょうか。

 仏教の真理の部分は変わりません。日本に正しく伝わったかどうか心もとないところもありますが、仏教の根幹である悟りと悟りに至る道は不変です。変わったら悟れなくなります。「諸行無常(生じたものは必ず滅する)」などの真理の法則も変わりません。

 一方、積徳行とか功徳回向などといういわば「衆善奉行(善いことは勤めておこなう)」の部分は、善いこと・功徳になることなら何でもよいので、やり方は千差万別です。仏像や聖地に供養する仕方から先祖のお祀りの仕方まで、各地の文化に影響されやすい部分です。チベットや東南アジアまで目を広げなくても、日本国内でさえ、地域によって時代によって、やり方は様々です。お盆とか年末年始、村の祭りとの絡みなど仏教をネタにして自分たちも楽しむ純粋な文化の部分は、地域差や時代の変化が顕著に現れるところです。

こういう文化の部分は時代や地域と共にどんどん変化していくのが当たり前です。実際、日本でもこれまで変化し続けてきました。現在までよく知られている、しかし急速に衰えつつある日常の仏教文化は、せいぜい江戸時代の最初の五十年が過ぎた頃から始まった、まだ三百五十年程度の伝統しかない新しい仏教文化なのです。

 

現在の仏教文化は江戸時代から

 

江戸幕府が全国民を仏教徒というかお寺の檀家にしようと号令を掛けたときから、現在の日本の仏教文化が形成されてきました。江戸幕府の奨励に乗って、全国津々浦々、一村ごとに一ヶ寺というほどの勢いでお寺が建立されました。江戸時代半ばまでの百数十年間に建立されたお寺の数は、江戸時代以前までの千年以上の間に設立されたお寺の総数の十倍にも上りました。

一村一ヶ寺ですから、ほぼ、寺の檀家=村の人口です。寺は村の戸籍係とか身元保証人にもなっていたのです。それだけではありません。寺の檀家ということはキリシタンではないということですから、葬儀は必ず檀那寺を導師におこなわないといけません。檀那寺は亡き人が確かに本人であることを確認する役目を自然に負っていたのです。一周忌、三回忌などという隔年ごとの法事を積極的に勤めること。寺で説教があれば行って聴聞するだけでなく施主録=芳名帳に記帳すること。割り当てられた寄付を滞りなく納めること。こういう「仏教徒=ある寺の檀家」というシステムは、江戸時代にはじめてスタートした制度なのです。しかも、二百数十年後に江戸時代が終わったとき、同時に制度としては終了しています。今や葬儀も法事も寄付も、それどころかどこかの寺の檀家であることも、やらなければいけないことではないのです。二百数十年続いた江戸時代の文化が、明治になっても昭和になってもまだ消えずに続いているだけなのです。

もちろん、檀家が自主的にこの善い文化を続けようとしていることは確かです。お寺を支えることは善行為で、葬儀でも法事でもお寺の法要でもそのたびに功徳を積んで先祖や一切衆生に回向することもできますから、寺と檀家という文化が続いていることは良いことです。問題は、お寺の方が勘違いして、檀家が寄付とかお布施するのが当たり前だと思っていることでしょう。布施は自由意思でおこなうなら善行為ですが、強制され徴収されると、料金とかぼったくりみたいになって嫌な気分しか残りません。嫌な気持ちでやるとせっかくの善行為でも功徳が少なくなってしまうのです。お寺は、法を伝える智慧と功徳を分け合う慈悲を持って檀家と接しないといけません。

 

江戸時代以来の仏教文化が変わっていく

 

お寺と檀家の関係が今でもまだ続いてはいますが、江戸時代以来の葬儀や法事や施餓鬼会、説法会などの佳き仏教文化も、今や急激に変わろうとしています。しかも何か新しいものに変わるのではなく、ただ消えゆくだけの「ゼロ葬」とか「墓しまい」とか「終活」などという「減らす」さらには「やらない」仏教文化?が盛んです。現代のこの「やらない」仏教文化?を考察する前に、これまでもこのような変化があったかどうかおさらいしてみましょう。

じつは、「やらない」仏教文化?の時代も、これまでも何度も現れていました。流行の変化のように、文化も周期的にいろいろなものが浮き沈みしていくのです。

 

・葬儀をしない

 

 仏教文化が廃れるというか、現代のように葬儀もしないなんて時代があったのでしょうか。

何度もありました。疫病の大流行などの病気、大火事や台風や大洪水などの災害、そして戦乱など、同時期にあまりにもたくさんの人が亡くなると、つまり、送る人より送られる人の方が多くなると、人手が足りなくて葬送するどころではなくなるのです。しかも遺体はどんどん傷みます。待ったなしの時間制限つきですから、やむを得ず葬儀も略式になるのです。五年前の東北の大震災のときがそうでした。

現代は葬儀社を頼んで(寺へのお布施も含めて)金銭的にできるかどうかがよく問題になりますが、それは葬送に関するすべての仕事を金銭に置き換えただけのことです。葬儀社が世に現れる(古くても明治時代、急増したのは第二次大戦後からです)前は、墓穴掘りや喪家の食事のお世話など何から何まですべてが、近所の人々の無償の協力によって賄われていました。その互助システムの無償の仕事を専門の人に任せて金銭で勘定してみると、現代の葬儀の費用分くらいになるのです。昔は喪家は葬儀のときは寺へのお布施以外何もしなくて済んだのですが、今は近所の助けを借りない代わりに葬儀代をすべて自分で払わないといけないのです。

現代でも、火葬炉が少ないとかお棺が間に合わないとか僧侶も足りない!とかで、大都会では日常的に、少々の田舎でも大災害の時はやむなく葬儀が略式になったりおこなわれなかったりします。物理的環境的原因によるのです。

現代の「ゼロ葬」は自然現象というよりは金銭的問題、あるいは各個人の価値観などで決めているようですから、地域共同体が主体になっていたこれまでの葬儀のあり方と違うといえば違いますが、お金にせよ人手にせよやる気にせよ、それらがあるかないか、葬儀ができるかできないかが問題なのです。「ゼロ葬」は今に始まった問題ではなく、しょっちゅう起こってきたのです。

これまでのやり方さえ、ホンの何十年か前に始まったものかもしれないのです。重い歴史というほどのものではありません。状況に合わせて、無理なく、できる範囲でおこなえばいいのです。やればやるほど功徳になるのですが、「こうやらなければいけない」などと負担に感じながらやると、せっかくの善行為でも功徳は少なくなってしまうのです。

 

・葬儀をしよう

 

 ただし、最近のテレビや本に見られる一部の風潮には眉をひそめてしまいます。そんなことを吹聴する人の悪業はどれほどかなあ、と当人たちのことが心配になってしまいます。「葬儀は無駄だ。そんなものにお金をかける必要はない。『ゼロ葬』でいこう」と、とにかく葬儀をしないで済ませようとする論調です。

 テレビや本を見ていて感じるのですが、そのような本を書いたり主張をする人の心には、どうしても隠しきれない悪意がありありと読み取れます。葬儀で不当に儲けているはずの葬儀社や僧侶を懲らしめてやろうという気持ちです。葬儀社が請求する不明瞭で高い葬祭料や僧侶が要求する高額なお布施、戒名料、院号料などに対する義憤によるものでしょう。個人的にも嫌な思いをしたのかもしれません。

しかし「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」では、やり過ぎです。ここ十年来のテレビや本の批判のおかげで、最近は葬儀の際の不明瞭な葬祭料請求はおよそないでしょう。葬儀を頼むこちら側も複数の葬儀社にあらかじめ相談して比べて、良心的なところを探しています。寺も布施とか院号料とか自分から言いにくくなっています。どうしても変な寺なら、他の良心的な寺に替わればいいのです。

問題は、テレビや本で批判する論客が、善行為や功徳や業の意味を知らないまま、義憤を含むにせよ自分の怒りに任せてやってしまっているということです。葬儀社や寺が気に食わないからというだけで、人がおこなう善行為を全面的に否定してしまっていることです。これは相当な悪業になります。

商行為が滞りなく成り立つとき、双方に「助かった。役に立った」という良い結果が生まれます。世間では双方が勝つという意味で「ウィン(勝ち)・ウィン(勝ち)」などと言っていますが、これは双方が金銭的に儲かるという意味だけではありません。買う側はお金を払って品物や心の満足が得られればいいのです。

葬儀社なしで、近所の助けなしで、僧侶の導きもなしで、一人で親の遺体を火葬しようとすれば分かります。どれだけの労力と手続きと必要物資と心の支え、そして衛生観念や遺体処置の知識と能力が必要か。遺族数名だけでは無理なことを能力あるプロに頼むには必要不可欠なコストがかかります。これはこの世の必要経費です。

しかも、そのうえで、亡き人のために何か善行為をしてその功徳を回向したほうがよいです。お寺をはじめとしてどのような宗教でもよいので縁あるところにお布施して、その功徳を故人に回向するのが一般的です。布施を受けた縁で宗教者も読経や説法などの法縁を結んでくれます。良い宗教者もそれほどでないのも酷いのもありますが、誰に対してでも、お布施した功徳だけは間違いなくあります。無理のない額を、とにかく自分の善行為としてお布施するのです。やってみて損はありません。やってみれば分かります。

こういう心の善行為さえも否定するのはまずいです。知らないとはいえ、人の善行為を妨害する悪業は、無垢の人々を道連れにしていますから、自分がただ悪いことをするよりも何倍も強い悪業になります。功徳や善悪業の法則をしっかり勉強して(仏教だけがこの法則を正しく教えていますが)、一般の人々を善から遠ざけないように気をつけないといけません。

水道の修理を頼むように、海外旅行の申し込みをするように、葬儀をするときも、気楽にあれこれ比較しながら、しかも自分たちもある程度の知識をつけながら、「このくらいはかかるよね」というコストを弁えて、安心してプロに任せましょう。そのくらいの敬意を葬儀社の人々や僧侶に対して持っていて損はありません。人はお互いに助け合うものです。そのうえで、自分が無理なくできる範囲で葬儀をしましょう。どのような規模でも、心がこもっていればいるほど大きな功徳になります。

 

・法事をしない

 

葬送は遺体の処理が関わるので、葬儀の儀式の部分をすべて省いたとしても、法的にも衛生的にも最低限はおこなわないといけません。

一方、葬儀の後の満中陰や年回などの法事をやるかどうかについては、まったく各人の自由意思によるものです。法事には葬儀と違って遺体の処理という緊急問題がないので、法的衛生的な縛りはまったくない、純粋な積徳行・功徳回向の(仏教)文化です。しかも、神道や他の宗教でも無宗教でも、おこなえばそれ相応の功徳が生まれます。

法事をおこなう意義は、宗教的なポイント、故人への追善供養・功徳回向の以外にもあります。家族の一員が欠けて悲しみに暮れるだけでなく家族の力も少し弱まってしまったその家族を親族が支えようというこれまた互助的な意味です。喪家の側から見ても、葬儀のときにお世話になった親族に遺族の元気な姿を示しながら当時のお世話に感謝する意味もあります。

法事は本来、功徳回向の先祖供養をすることだけが目的ではありません。故人の縁者たる親族が集まって旧交を温め、五年十年ぶりならば伴侶や子供など新来の親族の顔見せをし、変わらず助け合う気持ちを再確認する親族共同体の再結合です。寺へのお布施だけでなく、親族同士の相互扶助もお互いの功徳にもなります。何よりも地域の共同体とは別の親族の結束は、この人間世界を生きる上で心強いものです。

しかし、葬儀を近所や親族のお世話にならずに金銭的に葬儀社にだけお願いすることが多い現在では、親族をその後の法事に招く意義も薄れてしまいがちです。法事をしなくなるのは、さすがに現代の個人主義的な、金銭でドライに考える時代ならではと言えそうです。近所や親族との普段からの相互扶助のつながりが薄れていれば、法事でわざわざ繋がりをつくろうという動きにもなりにくいでしょう。

 

・法事をしよう

 

 ということを知ったうえで、できる範囲で法事もしましょう。現在増えている形は、家族葬と似ていますが、親族さえおよそ誘わずに、後のお斎さえせずに、遺族だけでお寺でお経と説法に逢うだけの法事をするパターンです。いろいろの準備やお世話は大変です。でも、故人のためにシンプルに何かしてあげたい。その気持ちが凝縮した形が、法事の中心の法要の部分だけおこなうというものです。

 それでも結構なことです。故人をすぐに忘れておさらばするほどドライではないのです。何かしてあげたいという気持ちが起これば、それだけでも心に湧き上がった善行為なのです。後は無理のない範囲でいいのです。面白いことに、そのように「このたびは家族だけでコンパクトな法事にします」とお誘いしない旨の連絡をすると、遠方の親族も故人の命日を、その生前の触れ合いを思い出します。供養したいという気持ちが生まれれば、それぞれの地域で自分の檀那寺に行って法事をしてもらったりできます。自宅の仏壇に手を合わせるだけでも、その家の先祖ではない親族の幸福をも願う気持ちがこもります。その思い出すこと、何かしてあげようとする気持ちも、それだけでも功徳になるのです。

できる範囲でやればいいと理解したうえで、逆に一度、親族を招いて盛大に法事をしてもよいかもしれません。「今回の法事は親族の再結束を兼ねているのだ」と割り切って、お互いに親族披露をしてみるのです。昔みたいに自宅に招いてお斎をふるまうのでは、特にその家のお嫁さんが大変です。自分たちも楽しみも込めて、法要が終わったら料理屋さんなどに移動することもできます。

特に親の葬儀の後の満中陰や一周忌などの法事は、その家の跡継ぎを親族にお披露目する意味もあります。社会通念上必要な通過儀礼だと思えば、法事の意義も強く感じられます。傍若無人に酔っぱらって騒ぐような親族がいたら、次から呼ばないなどの対処をすればいいのです。

さすがに、「葬儀をやめよう」と主張するテレビや本でも「法事をやめよう」とまでは言っていません。緊急時に不明瞭な高額請求をされる心配のない、落ち着いた心でおこなう純粋な宗教行為だから、文句をつける筋合いがないからでしょう。

ただし、お寺が「はい、次は何回忌ですよ。お布施はこのくらいが普通ですよ」などと指図するのはいただけません。お知らせはしてもらった方がありがたいですが、一般檀家の年回忌を決めたのも江戸時代からで、その形式に無理に合わせる必要はありません。やるかやらないか、どのくらいの規模かを決めるのは施主の側です。供養したい気持ちと身体や予定に合わせて、気楽に楽しく法事をしましょう。心が清らなかならば、その行為には必ず功徳が伴います。

 

・墓をつくらない・しまう

 

 葬儀や法事は行為ですから、一回ごとにやるかやらないかどのようにやるか決めます。終わったらその行為は消えます。しかしお墓とか仏壇は形や土地が物質的に残ってしまいます。これも最近は「しまいましょう」という文化になってきています。

 先に言っておきますと、家族用のお墓も、一人ずつの墓石さえも、そして仏壇も、一般家庭で始まったのはせいぜい江戸時代からです。比較的新しい仏教文化なのです。

 お墓については、戦前までは土葬が主流でしたから遺体を埋葬する土地がどうしても必要でした。寝棺なら畳一畳分以上のスペース、体育座りの桶棺なら正方形のスペースが、地域によっては各家ごとに設えてありました。村ごとの共同墓地にはその村の戸数分の土地がありました。江戸時代に僧侶が必ず葬儀をするようになると、遺体を埋葬する墓地でも何らかの儀式をするようになります。それに応じて各家ごとに石で墓標を建てたり、その表面に故人や家の名前を彫ったりするようになりました。墓標まであると、「埋葬しておしまい。後は土に還るだけ」とはなりにくいのです。家族(個人)墓の始まりです。

 基準を満たした高温の炉で遺体をきれいに焼くようになったのは、ほんの最近五、六十年ほどのことです。清潔なのでそのまま家に持っていても法律上も衛生上も問題ないのですが、すでに墓地がある家なら、そこの土に埋めてしまいます。骨壺ごと埋めても、いつかは土に還ります。しかし高温で火葬した焼骨を納める空間を持つ新しいタイプのお墓ができると、話はややこしくなります。安置しておくだけなのでいつまでも土に還らないのです。家系が絶えたらあとは誰がお墓を見ればよいのでしょうか。

 「お墓をつくらない・しまう」という最近はやりの文化は、お墓や墓地の値段が高いのも問題ですが、継承者がいなくなる(かも)という必要に迫られてのことでもあるのです。これは、堂々たる現代の(仏教)文化です。お寺が江戸時代の感覚を押し付けたりすると、おかしくなるだけです。文化は変わるのです。

 せっかく遺骨が高温で焼かれて清潔で持ち運びできる良い時代になったのです。必要な間だけ手元に安置して、移動も自由、法律をちょっと変えて処分も自由ということにすれば、新しいお墓(遺骨)の文化になります。人々の求めに合致するものは流行り、長続きし、良い文化だと語り継がれます。お墓や遺骨のあり方がそのように変化していくと良いでしょう。

 

・墓を工夫しよう

 

 墓しまいやそれに伴うお寺からの離檀にも、テレビや本が批判をしています。石材店の料金や寺からの離檀料が不明瞭で高額だからというのです。まったく、人の批判ばかりしないで自分で調べてくれと言いたくなります。

石材店にも何軒か行って、見積もりを取るだけでなくお店の雰囲気や担当者の人となりを見比べるべきです。葬儀社を選ぶのと同じです。金額を比べるだけでなく、そもそも墓石をつくったり運んだり建てたり処分したりということがどういうことか分かれば、こちらにも知識が増えて学びになります。先祖がどのような苦労をしてお墓を建てたのかも理解しやすくなります。「金額があいまいだ」などと文句を言われますが、労働には対価と実費が付きものです。ある程度は必ず費用がかかるものです。

寺の離檀料だけは、いただけません。法律上、どこかの寺の檀家になるには入檀料などの条件があるかもしれません。しかし離檀するのは檀家の自由意思にだけよります。信教の自由です。寺の墓地にお墓を建てていても、建てた最初に、それなりのお布施とか料金を納めたはずです。処分するときはその区画は檀家の費用で更地にしますから、他の人のために使えるのです。さらに離檀料などを請求される謂われはありません。これまでお世話になったという気持ちを自分の意志でお布施すれば、功徳にもなるので言うことはありません。

位牌や遺骨をお寺に預けていた場合も、最初に預け料みたいなものを納めていれば、返してもらうときにさらにお金を請求される謂われはありません。気持ちを込めてお布施するのはもちろん良いことです。位牌や遺骨は移動できるので、無料で預ける場合もあるでしょう。その場合は、これまで預けておいた分の気持ちを含めて、返してもらうときにお布施した方が良いです。

テレビ人も本を書く人もしっかり勉強してほしいのですが、善行為には功徳があります。悪行為には悪業が生まれます。仏教だけが大真面目に言いますが、実感が伴う明らかな事実です。だから葬儀も法事もお墓もこれまでずっと続いてきたのです。今、これまでのようにはできないから苦しんでいるだけです。誰もやめたくはないのです。「料金」か「お布施」か、「妥当」か「法外」か、よく見極めて、ついでに法律や先例もあれこれ調べて、騙されずに気持ちよく徳を積めるように導くべきです。「インチキだ。無駄だ。やめよう」というだけでは、人の善行為を妨げるばかりです。私の『功徳はなぜ回向できるの?』とか『お布施ってなに?』とかを読んで勉強してほしいものですね。

 

・仏壇をつくらない・しまう

 

 家庭用の仏壇も、江戸時代の手作りから一般に広まりました。僧侶が家に来てお参りするので、お参りする対象とか場所が必要になったのです。本尊や先祖の位牌を安置し、後はロウソクやお香やお花など、各家庭でアレンジしていたのです。全部が一セットになった、本堂の内陣をそのまま縮小したような箱型の仏壇が専門家によってつくられるようになったのは、ほとんど明治になってからです。お金を払って購入しなければなりませんが、お祀りしやすくて便利になりました。

 その仏壇も、家系が絶えるなら誰が継ぐの?ということになるのです。お墓や仏壇はどうしても各家庭や個人専用のもので、車や家のように中古で売買するのは気が引けます。処分するしかないのです。位牌をお寺に預けても、位牌に「魂が宿っている」わけではありませんから、いつかは焼却処分しておしまいにします。同じ要領で、仏壇も仏壇屋さんに頼んで処分すればよいのです。自分が亡くなるまで、家系が本当に絶えるまでの間は、本尊と小さな位牌だけのお守をするケースが多いです。全部セットでは大き過ぎて重過ぎるのです。仏壇が始まった当初に還って、簡易式のものになったのです。

 

・仏壇を工夫しよう

 

 仏壇も、位牌とか過去帳とかの記録や写真があれば先祖を祀る先祖壇。先祖の記録や写真の傍に仏さまの絵や仏像の写真や像そのものがあれば、その場が立派な仏壇です。高価な箱ものを揃える必要はありません。むしろ逆転の発想というか江戸時代初期の仏壇の草創期に戻って、ある空間を区切って自分の好みで自分にふさわしい「仏壇」を創造するのはどうでしょう。江戸時代のように床の間や押入れの一角を利用しても構いません。そんな和室がなければ、今風の仏壇を奥にピッタリのスペース、箪笥の上とか居間のテレビ台の傍とか、自分の寝室やみんなが集まる場所に、心の中心をつくるのです。

小道具もいろいろ楽しいものがあります。仏壇屋さんに行ってみましょう。これもあちこちに行って各お店の雰囲気を比べましょう。そのうえで、仏壇本体を求めなくても、像や鈴、お香と香炉、ロウソク立てなど、必要かどうかを吟味しながら好みのものだけを求めて「私の仏壇」をアレンジしましょう。

「こんないい加減な祀り方ではいけません。我が宗派の正式な仏壇にしなさい」などと要求するお寺は時代遅れなので諦めて、お寺も新しいところを探しましょう。寺や僧侶はもともと時代に先駆けるリーダーであるはずです。それだけの知性と先見の明が求められるものです。文化の変化についていけなくて旧弊をそのまま押し付けるようでは、その寺はおしまいなのです。正しい道を示してくれるお寺を探しましょう。

仏壇もお墓も法事も葬儀も、全部、供養するこちらの自由意思による善行為です。テレビにも本にもお店にも僧侶にさえも、あれこれ口出しされる謂われはありません。楽しく、心を込めて供養すればそれだけで大きな功徳になります。自信を持って自分流で行きましょう。

 

文化は変わるものだからしまっても大丈夫

 

 お墓も仏壇や位牌も、そこに「故人の魂」が住んでいるわけではありません。「ここに遺骨を埋めたよ」とか「ここに名前を記録したよ」という思いがこもって、遺族が、なんとなく特別な気持ちになるだけです。土地やモノそのものではなく、それを大事に思う気持ちが大事なのです。そして遺族に大事に思われている当人は、とっくに新しい世界に生まれ変わって頑張っているのです。お墓や仏壇や位牌などの物質にこだわらず、できるときにできる範囲で先祖供養・功徳回向をすれば良いのです。

江戸時代から一般に広まった仏事やお墓や仏壇が徐々に贅沢になり豪勢になってきたのですが、ここにきてまた揺り戻しというか先細りというか、家系が絶えたり同じ仕事なのに賃金が減らされたりして大変な時代になっています。こういうときは重厚長大から軽薄短小に切り替えるしかありません。できる範囲のものに小さくすれば気持ちも楽でしょう。せっかく徳を積むチャンスである先祖供養や家系のお守を負担に感じては本末転倒でもったいないのです。

 負担を軽くして、気楽に徳を積みましょう。先祖供養をする私たちも、遅かれ早かれ死ぬのです。どこかに生まれ変わるのです。重荷で心をいっぱいにして憂鬱な世界になんか往きたくありません。心軽やかに、徳はたっぷりと満ち足りて、次の生涯も堂々と善い処に往きましょう。

 







誓教寺 | 20:08:04 | トラックバック(0) | コメント(0)
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