協会の記事ではありません。
サークル仲間の所感です。
<大仏とやっさんとやさしい教え>
「私は仏教徒です」と言うと、とても信心深く、先祖供養をしっかりして、お正月やお盆のお墓参りは欠かさないというイメージを持たれます。
「お墓参りは寒い(暑い)から面倒で嫌だなぁ」などと発言すると、仏教徒なのにどうして、とばかりに不思議がられます。さらに「自分のお墓は要らない」と言って、また不思議がられます。普通は「死んだらきちんと墓に入れて下さい」と考えるものらしい。
先祖供養なんてものは、もともと儒教思想で仏教とは関係ないし、お墓だってそこに先祖の方々や亡くなった家族がいるわけでもないだろうにと、僕は思うのです。墓地を見て居心地が良さそうだとは感じられないし、そんなところに「死んだらいれて欲しい」とは僕は絶対に思わない。むしろそこにいてくれと言われることは罰ゲームのようだと考えてしまうのです (^^;)
生きていると多くのしがらみが生じて、自分の好き勝手には出来ないもの。だから、死んだ後くらい好きにしたい。それなのにお葬式で「私たちを見守っていて下さい」などと勝手に呼びかけられたら、きっと僕は「嫌だ!」と叫んでしまう。死んでからは天界へ行って遊び呆けるのが僕の予定で、だから他人のことなどかまってはいられない (^o^)V
もっとも我が家ではこれが夫婦の共通認識になので、たぶんお嫁さんは「見守って欲しい」とは言わない。それ以前にそんなことを期待する訳がないのです。
死者に対する考え方は、生まれた時から少しずつ刷り込まれていくもので、なんとなく家族や社会で受け継がれていくようです。死んだらどうなるとか、死んだ人はどこに行くのかと漠然と考えることは誰でもあることでしょうけれど、その答えは自らの内にあるものではないので自問するより、むしろしっかりと教わり学んだほうがいいと考えるのです。
『死という誰にでも起こる事実を、愛する人の死だからと悲しんだり、憎い敵の死だからと喜んだり、他人の死だからと無関心になったり、自分の死だからと恐れおののいたりせず、「誰にでもかならず起こることだ」とありのままに堂々と受け入れること』
藤本 晃著「餓鬼事経 死者たちの物語」
この本は、亡くなった人への対応を学ぶに最適です。
『餓鬼事経』パーリ仏典経蔵小部第7経