協会の記事ではありません。
サークル仲間の所感です。
<大仏とやっさんとやさしい教え>
「無我」の教えと「わたし」の幸福
6月6日 中日文化センター スマナサーラ長老講演会
冒頭スマナサーラ長老が、「無我」の教えと「わたし」の幸福 というテーマでは難しいので 「無我」を知れば幸福になる に変えますと言われました。言葉を並び替えるだけで、なんだか簡単に理解できそうな気がしてくるので不思議です。でも「無我」を本当に理解することは簡単なことではなくて、完全に理解することが出来れば、きっと至高の幸福を感じるのでしょう。
さて本題です。
「兎の角は、細いのか太いのか? もしくは、短いのか長いのか?」
「私」とは、まさに兎の角のごとく。
こうして存在しているのだから「私」はいるに決まっている。
では私は「私」を示すことが出来るのか。
そして「私」を見いだすことが出来るのか。
一体「私」とは何なのか。
人は自分とは関係のないことについては、いつも知ったかぶりをするものなのに、それが「私」のこととなると、とたんに悩み苦しみ始める。「私」は唯一絶対の存在であるという考えが「私」の内に不幸や不安を作り出す。
誰かが他人を批判しても何も感じないけれど、誰かが私を批判すると強く怒りを感じてしまう。
誰かが他人を貶めても何も感じないけれど、誰かが私を貶めると強く怒りを感じてしまう。
あらゆることものに対して「私」を割り込ませなければ、不幸や不安は取り除けるのだから「私」の概念を無くしてしまうことをすればいい。兎の角のごとく、実態のない「私」は排してしまう。
なんだかとても難しく感じるけれど、長老曰く、それは「気楽に生きる」だけ。過去に悩まず、過去と今とを比較せず、今この瞬間だけを感じて楽しむ。
苦しみは自分自身が作り上げる世界であり、不幸を自ら呼び寄せてしまっている人は意外に多い。人は自ら地獄を作り上げ、そこに自らを放り込む。何ものも気にしなければ問題は生じないのだと、長老は締めくくられました。
もちろん最後は「そうならないため、冥想実践を怠らないように」でした。