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zaike2号

Author:zaike2号
 東海ダンマサークルでは、東海地方をベースにお釈迦さまの説かれた「テーラワーダ仏教(初期仏教・上座仏教)」を、皆さんと一緒に学び実践するために活動しています。
 また、日本テーラワーダ仏教協会より、定期的に長老(お坊さま)方をお招きし、法話・勉強会・冥想実践(ヴィパッサナー)を行っています。

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仏旗  宝泉寺ホームページ





協会の記事ではありません。
協会のリンク先
八幡山 宝泉寺 (笛岡泰雲住職)の紹介です.







348
   有
(う)の辺際を知りし汝(なれ)
   前際を断ち 後際
(ごさい)断ち
   現際も断ち 心解脱
   再び生老
(りんね)をうけざらん
             (ダンマパダ 348 番) (和訳:江原通子)
348
   未来を捨て 過去を捨て
   存在のありさまを知り 現在も捨てる
   一切より解放されし者に
   ふたたび生老の流れはない
             (ダンマパダ 348 番) (和訳:スマナサーラ長老)


● 今回のポイント (スマナサーラ長老)
 ・ 時間とは観念です
 ・ 変化を計るために時間という観念を作ったのです
 ・ 過去と将来は実在しないのです
 ・ 現在も瞬間の命です
 ・ 時間に囚われることで輪廻転生になります


 🌗下弦の月坐禅会 6月16日(金)の夜7時~

〈 7月は22日(土)夜、🌑 新月の坐禅会の予定。 〉

 
毎回、「 宗教法人 日本テーラワーダ仏教協会 」のホームページ
スマナサーラ長老の『パティパダー』巻頭法話集からご紹介です。
(協会のHP開設以来、管理人の1人として、ご説法ファイルを毎月追加させて戴いておりまして、
少しでも有縁の方々に再度ご覧戴きたいという願いもこめた、ご紹介リンクのつもりです。)

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心を打ちのめす時間
~執着がなければ苦しみもなし~
 (2012年9月号のスマナサーラ長老、巻頭法話)

■時間は存在するのか

 「時間がある」「時間がない」などのフレーズは、日常よく使います。この場合、時間とはどのような意味でしょうか。時間は、ある・なしで示されるものでしょうか。難しいことを考える必要はないのです。簡単に考えましょう。部屋が汚れている。掃除しなくてはいけない。そこで、「時間があるから掃除します」「時間がないから後回しにします」ということになります。時間がない、という場合は、別にやることがある、という意味です。
時間がある、という場合は、他にやることはない、という意味です。やることがある、やることがない、という現実的な状況を表現するとき、時間という概念を使っているのです。時間という何かが別に存在している、ということではないのです。

 「時間は存在しない」と言っても、悪くないと思います。しかし我々の人生は、時間という化け物にひどく痛めつけられているのです。時間は、頭のなかで生まれる観念です。存在しない観念なので、「時間とは妄想概念である」と言っても構わないのです。暑さで困っている、寒くて困っている、病気で困っている、金がなくて困っている、などの考えの場合、話は現実的です。困っている状況をなくせます。金がなくて困っているひとに金をあげれば、問題は解決します。時間がなくて困っているひとに、時間というものはあげられません。それでも「時間をあげます」と言うでしょう。しかし、何もあげていないのです。ここで何が起きているのでしょうか。

 あるひとに、何か仕事を頼んでいる。そのひとには、別にやることがあります。ですから、時間がないと言う。それで、そのひとが先にやるべき仕事をやり終えてから、自分が頼んだ仕事をしても構わないと思うのです。その気持ちを「時間をあげます」という言葉で表現します。結局は、時間があるのではなく、「行為がある」ということになります。行為というものは、連続して一個ずつ行なうものであって、同時並行では行えないのです。

 この状況を、時間という観念で理解しようとしているのです。妄想概念を駆使して、現実を理解しようとするのです。ひとに電話をかけてみる。そのひとは話し中です。こちらの電話は繋がりません。ツーッツーッという信号が交換器から流れる。それは相手の電話から発信した音ではないのです。しかし交換器は、「いま相手の方に話す時間がないので、繋ぐことはできません」という案内はしないのです。もしかするとこの時だけですよ、人間が「時間」という妄想概念にひっかからないのは。

■無常と時間

 仏教でありのままの真理として教える項目のなかで、重大な概念は「無常」ということです。宇宙がある、世界がある、生命がいる、宇宙は有辺である・無辺である、などの考えは間違いだと、捨てているのです。存在のことを「無常」という一言にまとめるのです。我々が「ある」と思う一切の現象は、一時的で変化していくのです。或る現象に「ある」と言っても、次の瞬間に、その現象は変わっているのです。「ある」と言うためには、変わらないでいる必要があります。それはあり得ないのです。変わらないでいるものは、ないのです。ですから、「ある」という言葉は正しくないのです。であるならば、「ない」という言葉が正しいでしょうか。正しくないのです。「ない」とは言えないのです。ですから、有でも無でもなく、無常なのです。

 すべての現象は止まることなく変化し続けているので、人間の頭のなかで時間という観念が現れてしまったのです。地球は止まることなく回転します。一回転終えたところで、一日と思う。その一回転を時・分・秒などにわけてみる。根拠のない話です。一日とは二十四時間だと言っても、六十時間だと言っても、構わないのです。一時間とは六十分ではなく百分であると、一分は六十秒ではなく百秒であると言っても、構わないのです。時間とは頭で計算するものだから、一日は百時間、一時間は百分、一分は百秒としておけば簡単だったのに。現代世界は、原子時計という機械によって時間管理されているのです。
原子時計は地球の回転に関係のない機械のようです。原子一個であっても、常に変化し続けているのです。その変化が起こる過程で原子が発する振動で、時間を計算する。この話で、時間の本当の姿が観えてきます。時間とは「ある」ものではないのです。ものは変化するのです。その変化を数えるのです。時間は数学以外の何でもありません。

 仏教は初めから、時間という概念を捨てたのです。無常という真理にもとづいて、ものごとを観たのです。人々は無常を発見していないのです。それでも、現象が変化することに気づくのです。その変化を時間という妄想概念で数えるのです。

■時間はトラブルのもと

 それで人間は、存在しない時間という観念が、存在するものだと勘違いしてしまったのです。時間を数える機械をつくってみたのです。その機械が人間を管理するようになったのです。人間は時計という機械の奴隷になったのです。人間の生き方は、時計が決めるのです。朝食・昼食・夕食などは身体の要求に合わせるのではなく、時計に合わせるのです。試験を受けるとき、全問正解する能力があっても、時計が邪魔するのです。時計が決めている時間内に答えなくてはいけないのです。頭がいいのに、試験で落第するひとも、けっこういるのです。日本では抜群に学習能力ある子供たちが現れても、飛び級して大学入学することはできません。小六、中三、高三という十二年も、無駄に過ごさなくてはいけないのです。その子供の脳の無常は、他の子供より早いのです。自分の速さに社会が合わせてくれないから、学校で暴れて、問題児になるしかなくなるのです。

 仕事をするときも、家事をやるときも、開発などをするときも、時間が襲ってくるのです。時間がすべて管理しようとするのです。しかし、なまの人間には、機械である時計の命令に忠実に生きることはできないのです。それで精神的な悩み苦しみが生じてくるのです。しかし時計を無視することでも、問題が起きます。勉強が終わってから仕事に就いて働く。仕事が面白くなる。昇格を期待して頑張る。そのひとが女性だとしましょう。明るく生きているからといって、無常からは逃げられません。身体の変化の過程で、ある時期までに結婚しなくてはいけません。子供を産める時期もあるのです。その期間に仕事に没頭していたので、結婚のチャンスも、子供を産むチャンスも、逃してしまうのです。それで困ったり悩んだりするのです。それは時計を無視したことの結果です。学校で勉強より遊ぶことに興味をいだいたら、まともな大人になるチャンスを逃してしまうのです。あとで後悔するのです。このような場合は、時計を無視した結果だと言えるのです。実際は、時間が存在するのではなく、現象が絶えず変化するだけなのです。これらの人々は、変化を無視したのです。無常をないことにしたのです。

■不可能にいどむ

 時間という妄想概念が現れて、人類の主権を簒奪するようになりました。かなり昔から徐々に進行した出来事なので、この状況が、みな自然だと思っているのです。実在しない時間を信じるが、変化を信じないのです。ですから、歳取ると、老いると、悩むのです。歳は何歳であっても、二十代、三十代の頃の身体で生きていたいのです。病気になると、ひどく狼狽するのです。死を怖がるのです。妄想の産物である時間は認めるが、絶対的な現実である無常を否定しているのです。真理を変えることは不可能です。例えば「地球が丸い」ということは、変えられないのです。人間がこの不可能に挑戦しているのです。成功しないのは当然です。ただ、悩み苦しみが増えるだけです。

 この妄想は、さらに拡大します。死にたくはない気持ちがあります。肉体が壊れることは避けられないと知ってはいるが、…
       …続き→ (宗)日本テーラワーダ仏教協会ホームページパティパダー巻頭法話(211) 

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  生きとし生けるものが、幸せでありますように。
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宝泉寺 | 15:57:23 | トラックバック(0) | コメント(0)
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