会の記事ではありません。
吉水 秀樹 安養寺住職 のfbより紹介です。
『執着を捨てる』 安養寺みんなの仏教 1月~6月レポート 吉水秀樹
春から、「欲望」と「執着」をテーマに学びの会を進めてきました。6月でひと区切りとして完結しました。私自身がこの間に学んだことをまとめてみます。
まず、ブッダの言葉によると『すべての人間の悩み苦しみの原因は、執着であること』。それはつまり、執着を捨てることが仏道であり、仏教は遠離の道、離欲の道であること。
言葉にすればいとも簡単ですが、この言葉を自分に引きつけて、できるできないに関わらず、自分の生き方にすることが肝心です。
誰のどんな悩み苦しみも、「その原因は執着であること」を信じるのではなく、理解することがはじめの一歩です。それが理解されれば、これは大きな一歩になります。
普通の人は「執着することが幸福」だと考えています。だからこそ執着するのです。それを「執着が苦しみ」とありのままを見る革命が必要なのです。
次に、自分が「何に執着しているか」を知ることです。これも、観念的にではなく、逐一今ここで、たとえ小さなことでも自分で確認することが大切です。自分のお気に入りの時計など持ち物を見たら、自分はそれに執着していると正直にありのままに気づくことです。
勉強会に参加した人全員に、「執着とは何か?」を自分で考えてもらい、「あなたが執着しているものは何ですか?」と問って、それに答えてもらいました。人の答えは面白いです。
・夜寝る時刻や睡眠時間、睡眠に執着している。
・夕食の作り方に執着している。食べ物に執着している。
・娘夫婦との同居を控えて、今の暮らしに執着している。
・いつ死んでもいいが、死に方には執着している。
・空き家になった実家に草が生えその苦情と、家族間の不仲に悩まされ、それらに執着している。
他人が語る執着は笑えます。そんなものに何で執着するのかと。私の例は「夜中に鹿がやって来てスイレンの葉を根こそぎ食べて、悲しみと憤りに苦しんだ…、」スイレンへの執着です。それを、聞いた人は笑っていました。「何でそんなものに執着するのか?」。人が執着する姿はヒントにはなりますが、自分の執着に気づいて、それを捨てなければ問題の解決にはなりません。
他人の例を聞いているとよくわかるのですが、「執着が捨てられない」というのは、間違いで「執着そのものが幻想や妄想」「執着が苦しみ」です。それは「自我を捨てるなんて私にはできない」と言っている人がいたとして、その人の言っている自我が幻想であって、もともと有りもしない妄想であるという意味です。
また、執着とは、何かが足りない、満足していないということです。そこからさまざまな不平不満などの悪感情が生まれます。しかし、そもそもその欲求が満たされることはあり得ません。もし、完全に満たされ状態があったとすれば、それは生命としての成長も終わってしまいます。あなたのまわりに完全に満たされた人など存在しないはずです。「苦聖諦」の真理がそこに見え隠れしています。
「すべてを捨てるなんて、ほんとうにできるのでしょうか?」と問う人がいます。しかし、逆に「捨てないで持ってられるものが何かあるのでしようか?」
生きることは捨てることです。健全に生きるとは、明るく捨てながら生きることです。
自分が執着しているものをよく見たら、そもそも執着できないものに執着している姿が見えてくるはずです。執着は妄想です。
美味しいものを食べたいと食べ物に執着している人がいたとして、美味しいものを食べることが幸福だと思っているのですが、「美味しいものを食べたい」ということ自体が苦しみです。そもそも「美味しいもの」など存在しません。それは、私たちがよく知っていることです。最高に美味しい料理を用意されたとして、それをたらふく食べました。満腹になった時に、それと同じ料理をもう一度用意されたらどうなるでしょうか?「美味しいもの」が存在するなら、きっと何時でも美味しいはずですが、それはあり得ません。「美味しいは何処にあるの?」という根本問題を問うべきです。真理は「美味しいものを食べたい」、それ自体が苦しみ以外の何ものでもありません。最初に苦があるのです。苦こそが真理です。
自分自身が何かに悩んでいるのなら、その背後に執着があります。悩んでいると気づいたなら、真理を理解するチャンスです。
何か、悩んでいる、苦しんでいるときに、「自分は〇〇に執着しているのだ。」と理解することが大切です。解決できようができまいが、これが最初の一歩です。大きな一歩です。
★執着を捨てる実践
◎執着が苦しみのもとであると理解する
◎自分が何に執着しているのかを理解する
◎どんな小さなことでも、今ここで執着していると気づく
◎必要という基準で生きる
「欲しいもの」はなかなか手に入りませんが「必要なもの」は簡単に手に入ります。
◎「少欲」 少欲とは欲が少ないことではなく、必要が少ないこと。必要が少ないと楽に生きられます。
◎「知足」 欲を満たそうとしても、疲れて壊れていくだけです。幸福とはズバリ「知足」です。知足とは、欲しいものがなく満ち足りていることです。何も欲しくないことが幸福で「楽」です。気づきの冥想で、この幸福を知るべきです。何もいらない。何ものにもなる必要がない、ただ今のワタシ。Doing nothing.
6月のパーリ語勉強会で学んだブッダの言葉で締めくくります。
スッタニパータ 第五 彼岸に至るものの章 12 ジャトゥカンニの問い 1098-1099
かくのごとく、ブッダは答えた。ジャトゥカンニさん、諸々の執着を捨てなさい。離欲を『幸福である』と見て、執着するものも、執着の対象として捨て去るものも、何ものも見い出されてはなりません。
それが、過去にあるなら、それを、干上がらせなさい。未来においては、何ものも、あなたにとって、有ってはなりません。もし、その中間の現在において、何ものも収め取らないなら、あなたは寂静なる者として、世を歩むでしょう。
1098“Kāmesu vinaya gedhaṃ,
欲望に対する貪りを律せよ
(jatukaṇṇīti bhagavā)
ジャトゥカンニさんよと世尊は答えた
Nekkhammaṃ daṭṭhu khemato;
出離を幸福と見よ
Uggahītaṃ nirattaṃ vā,
執着するものも、捨てるものも、あるいわ
Mā te vijjittha kiñcanaṃ.
何ものもあなたにあってはならない
Yaṃ pubbe taṃ visosehi,
それが過去にあるなら、それを干上がらせなさい
pacchā te māhu kiñcanaṃ;
未来はあなたにとって何もありません
Majjhe ce no gahessasi,
もし、その中間も取らないなら
upasanto carissasi. 1099
静寂になるでしょう。
※参考資料『執着の捨て方』A・スマナサーラ長老